第3回演奏会プログラム原稿抜粋 〜加藤浩子vs三澤洋史 対談講演より〜

東京バロック・スコラーズ
演奏会「若き日のバッハ」プログラム抜粋
〜加藤浩子vs三澤洋史 対談講演より〜



加藤 バッハゆかりの地を数多く訪ねて、一番感じる事は、バッハの土着性です。
三澤 土着性ですか?
加藤 バッハは一生を通じてほとんど中部ドイツのチューリンゲン地方とザクセン地方とだけで活動していました。行ってみると分かりますが、それらはみんなかなり田舎町です。
三澤 そういう意味ではバッハと同じ1685年に生まれたヘンデルと対照的ですね。
加藤 ヘンデルは、生まれたのはドイツのハレですが、ヴェネチア、ローマ、ナポリといったイタリアの大都市で活躍し、後年はロンドンに住んで、イギリス人に帰化しています。
三澤 バッハだって、彼ほどの才能があれば、ヘンデルのようにインターナショナルに華々しく活動することも出来たでしょう。
加藤 そもそもそういう発想はバッハの場合全くないのです。理由は二つあります。
ひとつは、エアフルトを中心に、チューリンゲン地方に昔から住み着いていたバッハ一族の影響です。バッハの父親は、彼の出生地であるアイゼナッハ近郊のヴァルトブルク城の楽師だったし、長兄はカノンで有名なパッヘルベルの弟子でした。親戚達もみんな音楽家だったので、バッハは生まれた時から、その地域の教会や宮廷でオルガン奏者や楽師として従事する事を当然のように受け入れていたのです。
三澤 ヘンデルのようにわざわざ外国に飛び出して、オペラを作曲するという必要性も感じなかったというわけですね。
加藤 もうひとつは、宗教改革の旗手であるマルチン・ルターの影響です。バッハが学んだアイゼナッハにある聖ゲオルク教会学校は、かつてルターも学んでいた学校です。つまりバッハはルターの後輩なのです。また近くのヴァルトブルク城は、ルターが聖書をドイツ語に翻訳した処で有名です。その地方の教会は、元来カトリックだったわけですが、ルターのお陰でみなプロテスタントに改宗しました。
三澤 そうしたルターの精神をバッハも受け継いでいるわけですね。
加藤 そうです。この地域にはルターのにおいがプンプンしていたのです。バッハが活動した所はみな小都市だったわけですが、教会音楽に限って言えば、この地域はドイツの中でもかなり進んでいました。また晩年の彼の職場であるライプツィヒの聖トーマス教会カントール(ライプツィヒの教会音楽と市の音楽監督)といったら、当時ドイツで教会や都市の音楽家としては三本指に入るポジションです。だからバッハは、ある意味、順調に出世街道を歩んで行ったともいえるのです。
三澤 バッハは若い時からかなり自信家で、気が短かったようですね。
加藤 アルンシュタット時代に、ファゴット奏者が下手なので、「お前のファゴットは年老いた山羊のようだ。」とこき下ろして剣を抜く騒ぎになったことがあります。また、オルガンの大家ブクステフーデの演奏を聴きに、休暇願を出してリューベックに行ったきり帰って来ない。ようやく帰ってきたと思ったら、礼拝でブクステフーデ風の即興演奏を延々と行って会衆をあきれさせ、とうとう教会会議にかけられてしまった、などという逸話が残っています。
三澤 楽聖バッハというイメージからはずいぶん離れていますね。
加藤 でも同時に、その頃のバッハは、あらゆるものをまるでスポンジが水を吸うように貪欲に吸収していったのだと思いますよ。
三澤 そうして若き日のバッハの作風が出来上がりました。驚くべき事に、バッハはその作曲技法において、若い時代にすでに完成の域にありました。
バッハの最初のカンタータ群は、ミュールハウゼン時代に書かれました。バッハ22歳の頃です。これらは、バッハの数多いカンタータの中でも傑作揃いで、しかも独自の形式を持っていることで知られています。
バッハは、ヴァイマール時代からノイマイスター式と呼ばれるカンタータ形式を用いていきます。それは当時流行していたイタリアオペラの様式を取り入れたもので、コラール以外は自由詩が用いられているのが特徴です。第一曲目は大規模な合唱曲ですが、そのあとレシタティーヴォとアリアが交互に続き、最後はシンプルな4声部のコラールで終わります。
この形式を採用すると、バッハはもうその生涯の終わりまで迷うことなくノイマイスター式でカンタータを作曲しました。そのため、ミュールハウゼン時代のカンタータは、バッハにとってはノイマイスター式に落ち着くまでの試行錯誤の時代のように思われがちですが、とんでもありません。バッハ研究家として知られるシュヴァイツァー博士などは、初期のカンタータをノイマイスター式カンタータの上に位置させ、何故この様式を捨ててしまったのだと嘆いているほどです。
これから取り上げるカンタータ第106番「神の時は最良の時」は、その中でも白眉の傑作です。曲は、バラバラに配置された聖書の聖句とコラールが自由に組み合わされ、ドラマチックで立体的に作られています。しかも音楽のモチーフは、歌詞のレトリック的装飾なのです。たとえば、「我々は動き」という歌詞は、動きのあるコロラトゥーラのモチーフで歌われ、長いという意味のlangeという言葉には、引き延ばされた長い音符があてがわれています。
最も素晴らしいのは、「人よ、汝は死ぬ定めなり」という厳しいフーガに、突然ソプラノの「そうです、来てください、主イエスよ!」という明るい旋律が飛び込んでくる瞬間です。これは旧約聖書的な恐怖と束縛の世界観に、新約聖書的な信頼と希望の世界観が到来することを表現しています。さらに、器楽によるコラールが同時進行して奏でられます。器楽ですから歌詞はありませんが、聴衆はメロディーを聴くと歌詞が頭に浮かびます。この「死と再生」を歌ったコラールで、対立する二つの世界観は総括されます。つまり、人が死すべきものであることは峻厳なる事実だけれども、イエスによって死は希望となるのです。こうした"モチーフの象徴性"は、後のワーグナーのライトモチーフを先取りするものです。
(対談から抜粋、要約)


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