ヨハネ受難曲講座供峩覆療一感」

ヨハネ講座その供ゞ覆療一感

三澤洋史

 ヨハネ受難曲は、マタイ受難曲よりも凝縮性が高い。ヨハネ受難曲はマタイ受難曲よりも先に出来たから、規模はマタイ受難曲よりも小さく構成も素朴だ。この時点では、このような長い曲を作るのは初めてだったから、バッハはヨハネ受難曲を作るにあたって、バラバラな感じになるのではないかと心配し、曲の統一感の確保に心血を注いだ。
ところが、それで上演してみたら案外心配するほどでもなかったので、次のマタイ受難曲では、
「今度はこういう風に攻めてみようかな。」
と作戦を練って、各場面をより丁寧に描き分けてみた。だからマタイ受難曲は拡散性が強く、ヨハネ受難曲のような凝縮性には欠けるのだ。

短二度の緊張

 ひとつの例を取ってみよう。(譜例参照。音源再生はこちらをクリックして下さい。)

これは第一曲目冒頭の部分。いきなり第一小節目から鋭い短二度の不協和音が木管楽器に聞かれる。ライプチヒの教会の会衆はびっくりしたに違いない。弦楽器の十六分音符と相まって暗雲が立ちこめるような不安な雰囲気を作り出している。
 この短二度の不協和音は、聴衆の心に強い印象を与えるが、それが後に最も激しい場面で再び登場する。21d「十字架につけろ。」(譜例参照。楽譜クリックで全体表示。音源再生はこちらをクリックして下さい。)

及び23d「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」の群衆合唱だ。ここで合唱によって歌われる短二度(あるいは転回形で長七度)の音程を聴いて、ただちに、
「あっ、冒頭と同じ短二度だ!」
と気づく人は、専門家を除いて多くはないだろうが、みんな冒頭のあの不安な感じを心のどこかに記憶していて、そのモチーフとの再会を潜在的に感じるのだ。こうしたことが、長い曲であっても音楽的な統一感を与えているのだ。

シンメトリーな構成

 バッハは、二つの受難曲に共通なある特別な方法で楽曲を構成している。それは「シンメトリーな曲構成」という手法だ。全曲の中である中心点を決めて、その前後に同じ要素を持つ曲をあてはめていく。つまり、中心点がXとするとその前後にAという曲をあてはめる(AXA)。その外側にまるで外堀を作るようにBという曲をあてはめる(BAXAB)。さらにCをあてはめる(CBAXABC)という風に曲を並べて全体を構成するやり方を使っているのだ。
(表参照)これは、フリードリヒ・スメントという学者による、シンメトリーの表である。これに沿って丁寧に見ていこう。

 ヨハネ受難曲では、シンメトリーの中心点は22番のコラールに置かれている。

あなたの捕らわれによって
私たちに自由がもたらされたのです
あなたの牢獄は恩寵の玉座
全ての信徒達の避難所
あなたが隷従の中になかったならば
わたしたちは永久に隷従の中にいなければ
ならなかったのです

 つまり、キリスト教の教義的中心である、キリストによる人類の罪のあがないと、十字架の意味づけを表現するコラールである。これを中心として、その前後には群衆による激しい憎悪を現す合唱曲が置かれる。

 この中心コラールに近い方からその周りを見ていこう。中心の直前にくるのは21f「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからであります。」であり、中心の直後は、それと同じ主題を持つ23a「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」である。
 その外堀の合唱はどうなっているだろうか?先ほども述べた、例の短二度のぶつかりが強調された21d「十字架につけろ。」と23d「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」だ。
 さらにその外堀であるが、ここだけはAB・BAという並びではなく、AB・ABという順で二曲が一対となって外堀を作っている。つまり、18b「この男ではない、バラバを」と同じ音楽は、23f「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」であり、21b「ユダヤ人の王、万歳」に対応するのは、25b「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いて下さい。」である。さらに、それぞれのABの間に、一曲ずつアリアが挿入されている。

クライマックスとピラト

 このシンメトリーの中心では、どんなドラマが展開されているのだろうか?いわゆる中心コラールの直前には福音史家による、

そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。
(ヨハネによる福音書第19章12節)

という記述が見られる。  コラール前では、ピラトはイエスに興味を持ち彼と対話するものの、なんら罪を認めず彼を釈放しようとするが、コラール後は群衆に押されて釈放を断念せざるを得ない状況に追い込まれる。
 バッハは明らかに、群衆がピラトをして処刑せざるを得ない状況に追い込んでいく過程を、この受難曲全体のクライマックスと捉えていたということだ。

 中心コラールの前はフラット系の調性が支配するが、コラールの後は一転してシャープ系の調性に変わり、それぞれの曲は半音ずつ低くなるのは、クライマックス前、クライマックス後ということで説明は出来る。現代の感覚からすると、むしろ後半の方に半音上げるかして、終わりに向かってどんどん緊張感を高めたらいいのに、と思わないでもないが、それがバッハの劇的頂点へのコンセプトなのだろう。

 25bというシンメトリーの一番外堀である曲の直後には、ユダヤ人達の申し出に対し、ピラトの、
「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ。」
と吐き捨てるように言うセリフが来る。ここでひとまずピラトの物語は終わる。すなわちシンメトリーは、ヨハネ受難曲の中において、ただピラトの場面に限定されているのだ。
 キリストの死は、ある意味結果論であるので、死の近辺にクライマックスはない。音楽も、アルトのアリア「成し遂げられた」の中間部を除いて、ただ静かな音楽が支配するのみである。この点が、ただ主人公の死に向かって盛り上がっていって、主人公が死ぬとさっさと終わってしまうオペラの作り方と決定的に違うところである。

4小節の音楽

 シンメトリーの中でも使われてはいるが、別でも活躍する4小節の音楽がある。2b「ナザレのイエスだ」で初めて出てくる音楽である。(譜例参照。音源再生はこちらをクリックして下さい。)

これは、その直後の2dにすぐ現れ、それから第二部に入ってすぐ二度に渡って出てくるシンメトリーとは関係ない16b「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と16d「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」の内の、二番目の方、すなわち16dのオブリガートとしてフルートと第一ヴァイオリンに現れる。さらにシンメトリーの中の18bと23fに現れ、合計5回も登場するのだ。こうしたことが聴く者に、
「あっ、これはさっき出てきた。」
という親近感を持たせることとなるのだ。

 このようにヨハネ受難曲においては、これでもかというほどに全曲を関連づけ、求心的な曲作りにバッハがエネルギーを費やしていたことが分かる。だからヨハネ受難曲は、これほど凝縮性が高い作品に仕上がったのである。


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