ヨハネ受難曲講座-モチーフの関連性

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三澤洋史

 先週は、ヨハネ受難曲の構成と、この作品の統一性、凝縮性について述べた。今週は、それに2,3の補足を加えたい。

 まず取りあげるのは、No.9のソプラノのアリアだ。悲劇的な受難劇の中で、何か場違いのように、突然明るく軽やかな音楽が始まる。

シモン・ペテロともう一人の弟子(ヨハネ)は、イエスの後をついて行った。
(ヨハネによる福音書18章15節)

この福音史家の短いレシタティーヴォを受けて、ソプラノが歌い出す歌詞はこうだ。

私もまたあなたに従います
喜びの足取りで
あなたを離しません
私の命、私の光よ
私の歩みを運んで下さい
決して止むことなく
私を引き、押し、誘って下さい

 その「喜びの足取りで」の歌詞には(譜例参照。楽譜クリックで全体表示。音源再生はこちらをクリックして下さい。)次のような軽やかなフレーズがあてがわれている。

一度聞いたら忘れない人なつこい音楽。これに身を委ねていると、ひととき受難の重苦しさを忘れるほどだ。僕は、個人的にはこのアリアは大好きだ。

 ところがこのアリアと全く同じ調、及びほぼ同じテンポで、「喜びの足取りで」のフレーズを共有する合唱曲が、この受難曲中二曲ある。21b「ユダヤ人の王、万歳」(譜例参照。楽譜クリックで拡大表示。音源再生はこちらをクリックして下さい。)と、それとシンメトリーになっている一番外堀の25b「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いて下さい」だ。

 アリアを支える低音の下降形のモチーフも一緒であるし、「喜びの足取りで」の箇所のファミファソラファソというベース・ラインは全くそのまま引き継がれている。

 このアリアが、こんな遠くにまでモチーフ的につながっているのに驚くが、これがどう内的につながっているのかというと、正直言ってよく分からない。誰か分かる人があったら教えて下さい。
 だが、ともあれNo.9アリアの音楽の明るさと軽さが、No.21bで「ユダヤ人の王、万歳」と叫ぶあざけりの表現とマッチしているのは事実だ。キリストの側でくじびきをしているローマ兵達の合唱27b同様、悲劇性と無関係に明るい音楽が必要だったのだろう。
 No.25bに関しては、あざけりの表現はもはやないが、No.21bとは「ユダヤ人の王」という歌詞で共通点がある。ヨハネ福音書の受難劇のくだりの一つのテーマが、「ユダヤ人の王」にあることを考えると(あざけって言われたにせよ、何にせよ、イエスがユダヤの王であったことは事実なのだ!)、この二つの合唱曲は教義的にかなり重要なものだ。だから「ユダヤの王」という歌詞の音楽的根拠を、王に従っていこうとするソプラノ・アリアにバッハは求めたのだろうか?

 もうひとつ重要なモチーフがある。No.29の福音史家のレシタティーヴォの最後、イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取る(譜例参照。楽譜クリックで拡大表示)。このEs ist vollbracht.というフレーズを受けて。No.30のアルトのアリアがアダージョで始まる。

 まずヴィオラ・ダ・ガンバが、直前のイエスのモチーフを引き継ぎ、多少の装飾を施してアリアの前奏を開始する。このモチーフは展開されて何度も現れ、聴衆に強く印象づけてから、アルトのソロが、まさにイエスの言葉そのままにEs ist vollbrachtと歌い始める。 このアリアは、途中「ユダ族の英雄は力持て勝利し、戦いを終わらせる」という部分で輝かしい勝利の凱旋音楽を奏でるが、再びアダージョに戻りアルトが「成し遂げられた」と歌って終わる。

 四つの福音書の中で、イエスが「成し遂げられた」と言って死ぬのは、ヨハネによる福音書のみだ。マタイとマルコでは、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と絶望の叫びをあげる。ルカでは、その記述はなく、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取る。けれどヨハネによる福音書の「成し遂げられた」という言葉は、他の福音書のどれよりも増して、神学的には重要だ。
 受難についてだけではなく、ヨハネ福音書においてあらわされているイエス像は、あくまでポジティブで強く、迷うことはない。ゲッセマネの園での苦しみもなければ、十字架上においても己の運命を受け入れている。そして死の間際の究極の言葉が「成し遂げられた」なのだ。
 この言葉は、自分が成し遂げようとした「人類の救済」が今成就されたことを示す。だからバッハも、それを受けてアルトのアリアの中間部で勝利の喜びを奏でるのだ。ただその音楽が激しく中断され、再びアルトが「成し遂げられた」とつぶやくように歌うのを聞くと、それが大きな大きな犠牲を伴ったものであることを、誰もが感じ取る。こういうところがバッハの偉大さだ。

 さらにこのモチーフは、一見無関係なアリアのモチーフとつながっている。No.13テノールのアリアだ。ペテロはそばにいる人達に「あんたはイエスの弟子だろう?」と聞かれて、三度も知らないと言ってしまった。するとその時鶏が鳴いた。彼は、「お前は鶏が鳴く前にわたしのことを三度知らないと言うだろう。」と、イエスが言った予言を想い出した。そして外に出て行ってさめざめと泣いた。その福音史家のレシタティーヴォの直後に、切り込むような激しさをもってこのアリアは始まる。
 バッハは、わざわざマタイ福音書からヨハネの泣く描写を引用して当てはめて、表情豊かなレシタティーヴォを作り、アリアに突入させた。この辺が劇作家バッハのドラマトゥルギーを感じさせる。でもその劇性の方向は、マタイ受難曲の同じ場面でのヴァイオリンのすすり泣くようなオブリガートを伴ったアルト・アリアとは全く対照的だ。

 このアリアの前奏のモチーフが「成し遂げられた」のモチーフと関連がある。(譜例参照。楽譜クリックで関連譜例表示。)

No.30のヴィオラ・ダ・ガンバのフレーズと比較してみるとよく分かる。キリストの亡き後、ペテロは布教の中心人物になっていった。ローマでの殉教に至るまで、決して迷うことなく信仰への道を走り通した。キリストの逮捕の夜、あんなに弱かったペテロは、自らの弱さと徹底的に向き合ったからこそ、その後の生まれ変わったような華々しい活躍があったのだ。だから「成し遂げられた」というキリストの言葉とペテロの悔恨とに、バッハが関連性を見いだしたとしても不思議はない。

 このように、個々の部分をよく見ていくにつれ、バッハが様々な神学的、教義的面に配慮しながら、丁寧に曲を構成していったことが分かる。そこがバッハの受難曲の深さだ。 よくバッハの受難曲をオペラ的と安易に言う人が多いが、オペラは、そこで表現されたことが全てだし、作曲家もそう思って曲を作っている。ある意味表面的なので、ヨハネ受難曲のような奥深さはオペラには決して求められないものだ。

たった一人、ワーグナーという作曲家をのぞいては・・・・。


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